江戸時代の子育てについて徹底解説!現代との違いや寺子屋の実態、当時の育児書などについて

いまから150年ほど前の江戸時代。当時の子育てはどのようにおこなわれていたのでしょうか?時代劇などで庶民の生活が描かれるシーンなどはありますが、実際のところはどうだったのでしょう。

江戸時代の子育てに関する文献や資料を調べてみると、現代とは全く違う独自の文化や方法が存在していたことがわかります。そこで今回は当時の親たちはどのような子育てを行い、どのような価値観を持っていたのか、詳しく探究していきたいと思います。過去と現在の子育ての違いや日本人の子育て文化の根源を知ることで、いまの子育てなどに活きる内容もあるかもしれません。

現代と教育方法は
どう違うの?

江戸時代における子育て方法について、現代と大きく異なっていた点を4つほどあげさせていただきます。

子どもの自立促進

江戸時代では子どもたちが早く自立するために、あえて幼い頃から家事や仕事を任せることが多かったと言われています。そうすることによって子どもたちは、家族と共に生活する力や仕事に慣れる力を身につけることができたのです。また農村地帯では子どもたちが早くから農作業に従事することも一般的であり、その中で農業に関する知識や技術を習得していたとされています。

親子の距離感

江戸時代では、親子の距離感が現代とは異なっていました。子どもたちは親から厳しくしつけられ、親の命令に従わなければ罰を受けることが一般的だったといいます。またその一方で親自身も子どもたちとの距離を置き、本当の感情を表に出さないことが求められていました。この関係を維持するために、親たちも精神的な負担が大きかったことが推測されますね。このような関係性の目的として、子どもたちが親に対する敬意や感謝の気持ちを持つことが期待されていました。

学校教育の不十分さ

江戸時代には公立学校が存在していなかったため、子どもたちは家庭や私塾で教育を受けることが一般的でした

また時代的な価値観から、女子の教育については男子よりも不十分だったといわれています。当時の教育は主に男子に焦点が置かれ、私塾も男子のために開かれることが多かったため、女子が教育を受けることは難しかったのです。また女性は当時の社会において男性よりも低い地位にあり、家庭での家事や育児を担当することが期待されていたことも、女子の教育に影響を与えたと考えられます。

子どもの結婚年齢の低さ

江戸時代では、子どもたちの結婚年齢が非常に低かったといいます。男性であれば15歳、女性であれば13歳ぐらいで結婚することが一般的であり、子どもたちはまだ未熟なうちに結婚生活を始めなければならない状況に置かれていました。

その背景には、家族の繁栄や世帯の存続に対する意識があったとされています。また親の同意があれば、未成年であっても結婚が認められていました

このように結婚の年齢が早いことから、親の子育て期間も現在よりもかなり短かったことがわかります。

江戸時代の父親と子育て

江戸時代の男性は職業に就いて家族を養うことが重要視される一方で、家族を取りまとめ、子供たちの教育やしつけを担うことも期待されていました。

父親の役割

父親は厳しい態度で子供たちをしつけ、特に男の子には男らしい行動や振る舞い方を教えるようにしていました。また父親は子供たちに、将来に備えて家業や家計の管理に必要な知識を伝えることも求められました。このように父親は家族の一員として、子供たちの育成に大きな役割を果たしていたのです。とはいえ、父親が家族の生活を支えるために長時間働くことが多かったため、子供たちは実際には母親や祖父母、地域の人々によって面倒を見られる時間が多かったとされています。

男女による教育の違い

また子供の性別によって父親の教育方法が異なることも多々ありました。

男子については、男らしさや武士道精神を身につけることが求められ、厳格なしつけが行われました。男子は幼少期から父親から格闘技や武器の扱い方を教わり、常に勝負に強い人物であることが期待されたといいます。また、男子は自己主張をすることが重視され、自分の意見をはっきりと言うことも許されました。

一方で女子については、家事や子育てに必要な技能を身につけることが期待されました。よってあまり父親が積極的に教育に関与することは少なかったそうです。女子は幼少期から母親や女中から料理や織物、子育てなどの技術を教わり、優しい性格や家庭を守ることが重視されました。また、女子には自己主張をすることはあまり期待されず、大人になっても控えめな態度が望まれました

父親の役割は、現代と異なる場合がありますが、家族の一員としての責任感や教育者としての役割が重視され、子育てにおいて父親の存在が不可欠であったことが特徴的でした。

たくさんの「親」がいた!?

江戸時代には、「取り上げ親」「乳付け親」「名付け親」という役割が存在しました。

取り上げ親

「取り上げ親」は、親権者が死亡、失踪、病気などの理由で子供を養育できなくなった場合に、代理で子供を引き取って育てる役割を担いました。江戸時代には、子供たちが地域の宝であるという考え方が広く受け入れられていたため、周囲と協力して子供たちを育てることは地域全体の責任であったとされています。

乳付け親

「乳付け親」は要するに乳母のことで、母親の代わりに乳児を育てる役割を担いました。江戸時代には貴族や武士階級、富裕な町民階級の家庭において女性が子育てに専念することができるよう、乳母を雇って子育てを任せることが一般的でした。乳母は授乳をはじめとする赤ちゃんの世話だけでなく、幼い子どもたちに家庭内でのマナーや礼儀作法、教養などを教えていたそうです。また当時は乳幼児の高い死亡率が問題となっており、乳付け親が乳児を育てることで乳児の生存率を高めることも期待されていました

名付け親

「名付け親」はその名のとおり、子供の名前を付ける人のことです。一般的には父方の親戚がその役割を担うことが多く、男子の場合は祖父や伯父、女子の場合は祖母や叔母などがおこなったとされています。名前には子どもの健康や幸運を祈願する意味合いもあったため、名前の意味や由来についても熟考していました。

江戸時代の社会において名付け親は子どもにとって重要な存在であったため、この役割を担うことは名誉あることとされていたそうです。

みんなで助け合う社会

江戸時代には、「子供組」「若者組」「娘組」という風習が存在しました。

子供組

江戸時代には「子供組」という、都市部で生まれた子供たちが年齢や性別を問わずに集まって遊んだり、共同で生活する組織がありました。当時は子供たち自身が自立して協力し生活することが期待されていたので、子供組はそのための育成場所のようなものとなっていたそうです。

若者組

「若者組」とは、年齢や職業が近い若者たちが集まって生活や商売を共同で行っていた組織のことです。若者たちが相互扶助の精神で結束し、生活や仕事において互いに助け合うことで、生産性の向上や社会的地位の向上を図ることができたそうです。

娘組

「娘組」とは、若い女性たちが集まって相互扶助や社交の場を提供する組織を指します。娘たちは結婚相手を見つけるためにも、仲間と交流することが重要であり、娘組はその場を提供することで、娘たちの社交や相互扶助を支援していたそうです。まるで結婚相談所のような存在ですね!

このような社会になった理由

これらの風習が成立した背景には、江戸時代の社会的・経済的状況があります。江戸時代では都市化が進み人口が急増したことで、地域社会全体が協力しなければ生活が成り立たなくなりました。また家族単位で生活することが困難な人々も多く、相互扶助や共同生活が必要とされました。これらの背景から、子供たちや若者、娘たちが自発的に組織を作り、共同生活や相互扶助を行うことが重要とされ、子供組や若者組、娘組が発展したといいます。

また、江戸時代には、身分制度が厳格に存在しており、社会的地位や生活水準によって人々の交流が制限されることがありました。このため同じ年齢や職業、性別などで共通する要素を持つ人々が集まって、共同生活や相互扶助を行うことで、社会的地位や生活水準の向上を図ることができたのです。

このような子供組、若者組、娘組といった組織はただの共済・交流グループという意味合いだけではなく、生活上の知恵を学ぶことにも役立ちました。例えば男子たちは集団で職種によって専門的な技術を磨き生産性の向上を図ったり、娘たちは集団で縫い物や料理などの技術を磨いて自立した生活を送るためのスキルを身につけたりしました。子供たちは遊びを通じて集団生活を楽しみながら、自己表現力や協調性を育んだとされています。

江戸時代の子供組・若者組・娘組は、自己完結的な組織であると同時に、地域社会全体との連帯関係も持っていました。これらの組織が地域社会全体で協力しあうことで、生産性の向上や社会の安定化が図られ、社会的なニーズに対して地域社会全体が責任を持つという価値観が根付いていったのです。

寺子屋って
どんなところだったの?

誰もが聞いたことのある、江戸時代の「寺子屋」。しかしその実態はどのようなものだったのでしょうか。

寺子屋とは江戸の識字率を高めるために、民間の個人や寺院が開設した小規模な教育施設。じつは幕府による公式の教育制度ではありませんでした

江戸時代の識字率は都市部でも10%程度に留まっていましたが、商業の発展により識字率の向上が求められるようになりました。しかし幕府は教育に対する意識が低く、公立学校の設立や教育施策に力を入れません。そのため民間の寺社や知識人などが教育を担うこととなり、寺子屋で子供たちに基本的な読み書きや計算を教えることで識字率の向上を目指したそうです。

また寺子屋は地域の子どもたちを対象にした教育施設なので、教師は周辺住民から選ばれた「お師匠様」と呼ばれる教師が務めることが多かったといいます。そのため地域の文化や風習を反映した教育が行われていました。

寺子屋は軒数が多く、多くの子供たちが入学しました。寺子屋の教育方法は、お師匠様が先生として全てを一人で担当することが多く、生徒はお師匠様に従って学習していたようです。入学は幼児期から始まり、卒業の目安は基本的な読み書きや計算を習得すること。子供によって習得の個人差が大きかったため、学年制度は存在しませんでした

授業時間は、朝早くから晩まで行われ、朝食や昼食は寺子屋で食べていたといいます。教科としては、漢字・算数・和歌・読み書きが基本であり、書道や囲碁などの文化教育も行われました。授業の種類としては、個人指導や集団指導、暗誦などの方法があり、お師匠様が生徒たちに合わせて教育方法を変えることが多かったそうです。

また寺子屋には「筆子塚」と呼ばれる風習がありました。筆子塚とは生徒が勉強に打ち込むことを祈願するために、書いた漢字や和歌を毎日土に埋め、墨を塚にするという儀式です。これによって生徒たちは勉強に打ち込む姿勢を養い、自分自身の成長につながると考えられていました。

基本的な教育方針として子供たちが自ら考え、自ら解決策を見つけることを奨励していたといいます。授業で教えられた知識を用いて、問題を解決するという方法は、現代でも重要視されている教育法のひとつであり、寺子屋が現代の教育にも影響を与えたことがうかがえるでしょう。

また、寺子屋は社会的な階層に関係なく、誰でも入学ができたことも特徴でした。江戸時代には、身分制度が厳しく存在しており、学問を身につけることが困難であった庶民の子供たちにとって寺子屋は学問の場として大きな役割を果たしました。

しかし寺子屋にも問題がありました。教師と生徒との年齢差が大きく、お師匠様が高齢になると後継者を見つけることが困難だったという点です。また教育水準にばらつきがあったため、寺子屋に通う生徒たちによって学問の水準に格差が生じることもありました

江戸時代の終わりには近代的な学校制度が導入され、寺子屋は徐々に衰退していきました。しかし寺子屋は江戸時代における識字率の向上や、庶民の子供たちに学問の機会を提供することで、地域社会の発展に大きな貢献をしたといえます。

江戸時代の育児書

それでは最後に、江戸時代に読まれていた育児書について、いくつか例をあげて内容を解説していきたいと思います。

『養育往来』

養育往来』は、江戸時代に書かれた育児書の一つで、子供たちの教育方針について記されたものです。著者の小川保麿は、江戸時代において家庭教師や学校での教育に携わる人物として知られており、本書はその経験から生まれたものです。

内容としては子供たちが礼儀正しさや規則正しい生活習慣を身につけることが大切であり、親や家庭教師が子供たちに対して厳しい態度を取ることが求められると記されています。また、子供たちは学問や技芸を身につけ、自分自身を磨くことが重要であるとされています。

ただし一方で、子供たちに対して過剰な体罰を与えることは避けるべきであるという旨も書かれていました。具体的には子供たちに対して厳しい指導やしつけを行いつつも、その手段として過剰な体罰を行うことは避けるべきであるという考えです。

『養育往来』は、江戸時代の児童教育に関する方針を示した貴重な書物として、今でも多くの人々に読まれています。江戸時代と現代では、教育方針が大きく異なることがあるものの、子供たちが礼儀正しさや規則正しい生活習慣を身につけ、健やかに成長するために必要な教育方針は、一貫して重視されてきたように思えます。

『比売鑑(ひめかがみ)』

比売鑑(ひめかがみ)』は、江戸初期の儒学者 中村惕斎(なかむらてきさい)によって書かれた女性の教養書のひとつ。日本の古典であり、江戸時代の女性たちの生活や教養について、詳細に記された貴重な書物とされています。

本書には子育てについても詳細な記述が含まれています。具体的には、子供たちが持つべき徳目や、親子関係における礼儀作法、子供たちの教育方法や遊び方、子供たちを健やかに育てるための食事法や世話の方法など、広範囲にわたる内容が紹介されているのです。

子供たちが持つべき徳目については、親や先祖を尊敬すること、正直であること、人に親切であること、勉強熱心であること、心身ともに健康であることなどが挙げられています。

また親子関係における礼儀作法については、子供たちが親に対して敬意を払い、感謝の気持ちを持って接することが重要であるとされています。また、子供たちは、年長者に対しても敬意を払い、礼儀正しい態度を心がけるように促されています。

さらに、「比売鑑」には、子供たちの教育方法や遊び方についても紹介されています。子供たちは、早いうちから読み書きを教えられ、学問に熱心に取り組むように促されています。また、子供たちは、遊びを通じて社交的な能力を身につけ、体力をつけることも重要であるとされています。

ほかにも、子供たちは野菜や果物、魚などの栄養素を豊富に含む食事をとるように促されていたり、清潔な環境で過ごし風邪や病気にかからないように気を配るように指導されていたりと、子育てに関する細かいことまでしっかりと記述された育児書だったといいます。

『比売鑑』では当時の子育てに関する知識や考え方が網羅的にまとめられており、江戸時代の親たちにとって子供たちを健やかに育てるための重要な参考書となっていました。

ただし記述された子育ての知識や考え方には、現代とは異なる部分もあります。たとえば、子供たちを厳しくしつけることが必要であるとされており、身体的な罰を与えることも本書では推奨されているそうです。また子供の性別によって教育内容や育児の方法が異なるとされていることも特徴的です。

『和俗童子訓』

和俗童子訓』は江戸時代初期の学者・貝原益軒が著した育児書であり、当時の子供たちの道徳や礼儀作法、学習方法などについて詳しく書かれています。

全3巻から成り立っており、それぞれの巻で異なるテーマについて論じられています。1巻では子供たちに対する親の教育方針やしつけの仕方について、2巻では学問についての基礎知識や学習方法、3巻では仏教や神道、道徳や礼儀作法について論じられています。

これら各巻の内容についても、もう少し詳しく解説してみましょう。

子供のしつけについて

1巻では、子供のしつけについて詳しく論じられています。貝原益軒は、子供が生まれた時からしつけることが大切だと主張し、親が子供に対して愛情を持って接することが必要だとしています。またしつけの仕方としては、厳しい罰則を与えるのではなく、理性的な説明や励ましを行うことが重要だと述べています。

学問について

2巻では学問についての基礎知識や学習方法が詳しく説明されています。子供たちに学問を教えることが大切だとされ、漢字の基礎知識や算数、地理などの会得の重要性が説かれています。また学習方法としては、問題を解くことや読書の習慣を身につけることが重要だとされています。

仏教や神道について

3巻では仏教や神道について詳しく説明されています。本書では宗教的な信仰を持つことが大切だと考えられており、仏教や神道の教えについての解説が行われています。また神仏習合の背景や、神社仏閣の存在意義についても触れられています。

道徳や礼儀作法について

3巻では道徳や礼儀作法についても詳しく説明されています。本書では子供たちは道徳心を身につけることが大切だと考えられており、正しい行いや心構えを身につけるための指導が行われています。また礼儀作法についても、丁寧な言葉遣いや身のこなし、作法などが詳しく説明されています。

親の役割について

本書では子供の教育を担う親の役割についても言及されています。貝原益軒は、親が子供に対して良い手本を示すことが大切だと考え、自分自身が模範となるように行動することが必要だとしています。また親が子供たちを愛し、理解することも大切だと述べられています。

まとめ

今回は江戸時代の教育方法や考え方について詳しく解説させていただきました。

現代との違い、父親の教育観、複数の「親」の存在、地域社会の子供との関わり方、寺子屋の内容、江戸時代の育児書についてみてきましたが、共通していえるのは現代の教育観に通じるものがあるということです。

特に

・親や教師による指導や教育が重要である。

・体験学習が有効であるとされており、実践的な学びを重視する。

・言葉や文字の習得が基礎的な学びである。

・社会性や協調性の育成が重視される。

・個人差に応じた教育が求められる。

これらの点において、江戸時代の教育理念は現代でも大切とされていることであり、150年以上経ったいまでも十分役に立つ内容といえます。

当時の考え方や育児書から子育てに応用できるものを探し、取り入れてみるのも面白いかもしれませんね!

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