子連れで行く!未来が見えるおもてなしの街『陸前高田市』その感想をまとめました!

今回は岩手県陸前高田市について、子連れで観光・見学に行った際の感想をまとめさせていただきます。

陸前高田についての他の記事は『おもてなしの丼』『牡蠣を喰らいまくれ』をご参照ください。

陸前高田市と震災

前回の記事では道の駅・高田松原にある「たかたのごはん」にて、嬉しい体験と美味しい三陸の幸を堪能させていただいた。(『おもてなしの丼』)今回はそのあとに見学した伝承館と震災遺構、そして新たな街並みを散策した感想をまとめる。

が、その前に今回の見学の成果物として、学んだ陸前高田市と震災についての内容をここにまとめておきたいと思う。是非とも一度、目を通していただけたら幸いだ。

陸前高田市は2011年の東日本大震災において最も深刻な被害を受けた街のひとつ。毎年夏には大きな山車で街を練り歩いたりぶつけ合ったりする「けんか七夕祭り」が開催されるような活気のある港町だったが、地震に伴い15メートル以上の巨大津波が襲いかかったことにより、街の中心地は壊滅市全体の70%が破壊し尽くされ、日本の渚100景のひとつだった約7万本の美しい松林「高田松原」も一本のみを残して完全に消滅した。

(参考:東日本大震災津波伝承館資料より)

犠牲者の数は津波浸水域人口に対してなんと10.64%。つまり破壊されたエリアに住む方の10人にひとりは亡くなってしまった(もしくは未だ行方不明になってしまった)ということになる。

(参考:陸前高田市東日本大震災検証報告書より
https://www.city.rikuzentakata.iwate.jp/material/files/group/61/kensyouhoukokusyo.pdf

三陸は過去にも明治三陸大津波昭和三陸大津波チリ地震津波など幾度となく大津波に襲われている地域。津波の記念碑は各地に残っていて、それが比較的多かった陸前高田市の広田地区では防災意識が高く、物的被害は大きかった割に人的被害は少なかった。加えて山が近かったことで多くの住民が高台に事前に避難できたということも被害を抑える要因になったと考えられる。

(参考:駒沢大学の研究「被害の地域差はどのように生じたのか」より
https://www.komazawa-u.ac.jp/~fumio/k2020/e-earthquake/ooisonagisa2016mar.pdf

しかし過去の体験が仇となってしまったケースもあった。昭和三陸大津波やチリ地震津波を実際に経験していた高齢者の中には、以前の津波到達地点を基準に避難をしている方も少なからずいた。また行政も、過去の津波のデータから割り出した安全地帯に避難所を設けていた。ここまではこない、大丈夫だ。そのような確信をもって家を離れない方や、指定された避難所に逃げて安心してしまった方が多かったのだ。

実際の津波はそれらの根拠を遥かに凌駕する規模で襲いかかった。過去に無事だったエリアや指定の避難所を完全に飲み込み、多くの人々が亡くなった。襲来のとき、とある避難所では命からがら逃げ登ろうと何人かが裏山の階段に辿り着いたが、その階段すらも津波は飲み込んだという。「悲劇の階段」として語られているエピソードだ。

(参考:東日本大震災津波伝承館資料より)

この苦い経験を踏まえて、陸前高田市は徹底した防災・減災の街として再建されることとなった高さ12.5メートルの巨大防波堤の建設もさることながら、その最たるものは街全体を10メートル以上もかさ上げする超大規模地盤改良計画だろう。土砂を運搬するための巨大なベルトコンベアーが10年近く街の中心を横断していた。その果てしなく長かった作業も今年2021年3月末に全ての工程を終えて完了。工事の長期化により別の街へ移動してしまった方も少なからずいたが、「アバッセたかた」や市民文化会館などをはじめとする100程度の店や事業所がすでに営業を始め、新しい街の形成がついに本格化しつつある

(参考:河北新報 「復興再考」第6部より
https://kahoku.news/articles/20201211kho000000073000c.html

かさ上げの完了した陸前高田市の大地。

東日本大震災津波伝承館

私と妻とヒナ2羽、そして妻の妹の5人はそのまま同じ施設内にある東日本大震災津波伝承館を見学することにした。

ちなみに道の駅のある建物は左右に分かれていて、向かって右側が道の駅、噴水を挟んで左側が伝承館になっている。その噴水を直進すると高さ12.5メートルの巨大防波堤があってその奥は海。その手前を右に曲がって進めば有名な「奇跡の一本松」と「陸前高田ユースホテル」という震災遺構にたどり着くようになっている。

実はこのエリア全体が高田松原津波復興祈念公園という施設なのだが、残念ながら2021年の夏の段階ではまだ一部しか完成していないようで、見学できない遺構もいくつかあった。

伝承館の内容は地震や津波のメカニズムが学べるコーナー破壊されたものの展示体験談の記録など様々だった。2019年の9月に開館したばかりで、1年ほどでなんと28万人もの来場があったという。隣にはとても美味しい海鮮のお店や地産品販売所があるので、訪れるたびに見学するという方も多いかもしれない。

入場料は無料なので入りやすいし、随時イベントなども開催されているので是非訪れた際には見学するのがいいと思う。施設内は撮影もOKだ。

閉館時間ギリギリまでかけて娘を抱っこしながら隅々回った。ちなみにベビーカーでも問題なく見学できるほど通路は広い。館内は構造がわかりやすいので、家族とはぐれることもないだろう。私たちもそれぞれバラバラに見て回って、終わるとすぐに合流することが出来た。

破壊された消防団の車。
小学校で発見されたピアニカ。
爪痕がそれぞれにくっきりと残る。

巨大堤防から望む広田湾

続いて私たちは堤防の方へ向かった。途中には献花台があり、その周りには非常に大きな芝生が広がっている。広大なこのエリアをどうやって手入れしているのだろうかと思っていると、スーッと視界の隅を何かが動いているのがわかった。猫かと思ってよく見ると、実はそれはロボット。なるほど、と納得する。忙しそうにせっせと働いていた。なんと可愛らしいことか。

そこを抜けた先にはいくつもの松の苗木が植えてあった。かつての美しい松林を復活させるため、ボランティアの方々が植林をしているそうだ。何十年後か、圧巻の高田松原を見られる日がくることを願ってやまない。

先に見えるのが巨大な防波堤。かつてはこの場所も住宅街や畑だった。

防波堤の高い階段を登りきると、再び献花台が。そこからは海が一望でき、眺めはとても良い。砂浜沿いにはさらに大量の松の苗木が区画に分かれて果てしなく植えられていた

その下にも降りられるようになっていたので、みんなで砂浜まで行ってみた。海は平穏そのもので、かつて街を壊滅させたとは到底想像もつかない。息子も久しぶりの海にただはしゃぐだけ。娘にとっては初めての海だったかもしれない。息子と一緒に波に足をつけて濡らしてみると、まるで優しく撫でるように心地よく海水が足元を通り抜けていった

砂浜に沿って植えられた大量の松。
降りてみると砂浜までは意外と距離があった。いかに堤防が高く、眺めのスケールが大きかったのかがわかる。
海にテンションのあがる息子。
この日の波は足を優しく拭っていった。

奇跡の一本松

再び堤防の前に戻り、今度は震災遺構のある方へと歩く。何も障害物がないので遠くからでも一本の細く高い松の木があるのがわかる。すぐ近くのようにも思えたが、実際はその元までは5分ほどかかった。堤防といい広場といい、本当にこの公園はスケールが大きいので、距離感が少々ズレてしまう。

ちなみにこの世界的に有名な「奇跡の一本松」だが、実はもう生きてはいない。塩水を浴びたことによって1年後には枯死が確認されたがプラスティネーション標本としてそのまま保存されたのだという。津波に耐え抜いた時のままでそこに立ち続け、街の人々に勇気を与えている。

奇跡の一本松。こんな立派な松が7万本も生えていた。

その奥ではガタガタに破壊された「陸前高田ユースホテル」が、当時のままの姿で保存されていた。コンクリート造りの頑丈そうな建物が、いったいどうしてこのようなことになってしまうのだろう。どうしても非現実的に思えてしまうが、これはれっきとした事実なのである。自然は想像を遥かに凌駕するのだ。貴重な遺構によってこの目で直接、津波の脅威を感じることができるというのは本当に大切なことである。

震災前の様子を想像する。
どれだけの凄まじいエネルギーだったのだろうか。

新しい中心街を散策する

海や遺構をじっくり見ているうちに、いつの間にかあたりは薄暗くなっていた。私たちは公園の駐車場に戻りラパンに乗り込むと、夕食を食べられる場所を探すために新しく出来た中心街の方へ向かった。そこは高田地区と呼ばれるエリアになる。

決してまだまだ大きくはないが、新しい街には博物館スーパーMAIYAなど出来たての綺麗な建物が道路沿いに立ち並んでいた。計画的な街づくりがされているので、飲食店はまとまっていてとてもわかりやすい。その駐車場に車を停めて、食事するお店を選びながら散策することにした

このときすでに時刻は19時を回っていたが、陸前高田の飲食店からは楽しそうなにぎわいの声が外まで聞こえている。どうやら夕方以降も営業しているお店が多いようで、正直意外だった。喫茶店も19時半まで営業していたので、もう少しだけ早く出発していればお茶も出来たと悔やまれる。

この散策の間にもこの街の素敵な出来事があった。私は娘と一緒に別行動していたので直接は拝見できなかったのだが、妻たちが息子を連れて散策していると、通りすがりの地元の方がこちらに気づいてご挨拶してくれたというのだ。妻たちはまるで街全体に「ようこそ」と言ってもらえたかのようだったと喜んでいた。なんて素敵なことだろう。

おそらく「七夕祭り」で使用する神輿だと思う。お祭りは近年再開されたそうだ。

30分ほど散策した結果、夕食は車を停めた駐車場近くにある「カキ小屋 広田湾」にてとることにした。他にも居酒屋さんや定食屋さんなど魅力的なお店が沢山あったが、最初に見かけた瞬間から少し運命的なものを感じていた私がゴリ押したのだ。これがまた大正解だったのだが、この食事の様子は次回『牡蠣を喰らいまくれ』にてまとめさせていただきたいと思う。

新中心街の様子。作りたての街にテンションが上がる。

接客の真髄を見た

今回、陸前高田の津波伝承館や被災地跡に作られた公園、遺構や新しい街を巡って一番感じたこと。それは街全体がもつ明るさと接客精神だった。震災について学びにきたり、美味しいものを食べにきた全ての人々へのおもてなしの心。これは地元の人々が精神的にも前に進み続けていないと感じ得ないことだと思う。

壊滅したエリアの再建をしなかった被災地も多い中、この街は10年間かけて土地をかさ上げし、自分たちで再び新しい街を作ることを選択した。それはつまり長い長い間、本格的な新しい街づくりは出来なかったということをも意味するのだが、再建のモチベーションは決して下がらなかったようだ。そんな強い街には出会ったことがない。

千葉に住んでいる私たちも、絶対にまたここへ来るだろう。確かなクオリティと記憶に残るおもてなしで自然とお客さんをリピーターにする。いわばマーケティングの理想である「集客の自動化」を実現した街といっても過言ではない。道の駅には沢山のお客さんが集まっていて、新しいお店からは楽しそうな人々の笑い声が聞こえる。

いまはそのほとんどが広大な空き地だが、近い将来にはそこに大きな観光街が形成され、幾多もの人々がそこに集うことはもはや明白である。すべての人々がこの陸前高田に見習うべきことはきっと多いだろう。心から尊敬できる街である。

次回、『牡蠣を喰らいまくれ』に続く。

見学する娘。

施設情報

公式HP:https://takata-matsubara.com/

住所:〒029-2204 岩手県陸前高田市気仙町字土手影180 道の駅 高田松原

駐車スペース広大
営業時間9:00〜18:00年中無休(施設内一部店舗を除く)
※現在コロナウイルスの影響で休業中
電話番号0192-54-5011

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